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マロンは夢を見ていた……どこか、知らない海辺にいる夢だった。砂浜が長く続き、穏やかな海は、陽の光にきらきらときらめいている。波の音だけが、静かに響いてくる。 ここは、何処なのだろう……みんなはいないのだろうか。そう思ってあたりを見回すと、少し離れた場所に、同じように海を見ているキャロットを発見した。自分一人ではないことに、マロンは少しだけほっとする。
「兄さん」
声を掛けて、キャロットの方へと歩き出す。キャロットもマロンの声に気付き、こちらへ振り向いた。
「……兄さん……?」
マロンは眉を寄せ、訝しげな声を出す。
キャロットは、泣いていた。悲しそうな顔をして……。
どうしたの、と尋ねかけた時、急に風と雨が二人を襲う。静かだった海は突然のように荒れ狂い、高い高い波が砂浜へと押し寄せてくる。
「あ、危ないっ!」
キャロットは逃げようとしない。それどころか、身じろぎもしないのだ。マロンは全力で走り出した。だが、キャロットの体に手が触れる寸前、波は二人に襲い掛かった。
「……! に、いさん……!」
波に揉まれながら、必死にマロンはキャロットに手を伸ばす。……しかし、波の中に、キャロットが消えていくのをマロンは見た。手を伸ばしても、伸ばしても、キャロットに届かない。
「兄さん……!」
急激に波は引いた。マロンだけが、拒否されるように砂浜に取り残される。キャロットの姿は、すでに何処にもなく、波も嘘のように静まりかえっていた。まるで、キャロットを攫うことだけが目的だったとでも言うかのように。
「そんな……兄さん……兄さんっ!」
マロンはもう一度叫んだ。その瞬間、マロンは急激に夢から覚醒する。
がばっ、と飛び起きてから、ここがいつもの自分とキャロットの部屋だと気付く。反対側の壁の取り付けのベッドに、キャロットが眠っていた。
荒い息と、激しい心臓の鼓動を静めようとする……あんまりな夢だった。心臓が凍り付くような、不安で、悲しい夢。
「……マロン……?」
ふと、キャロットがマロンを呼びながら体を起こした。マロンが飛び起きた気配で、目が覚めたのだろう。マロンがびくっとしながら、キャロットの方を見る。
「……どうかしたのか?」
「……ううん、なんでもない……」
マロンは誤魔化した。あの夢のことを話して、兄を不安にさせたくもない。
「……そうか?」
マロンの返事を聞くと、キャロットはもう一度布団に潜り込んだ。元来楽天家なので、あまり深く考えないのである。そのまま、すぐに寝息が聞こえはじめる。
マロンはしばらくの間、眠っているキャロットを見続けていた。……さっきの夢が、嫌に気になるのだ。
もう一度横にはなったものの、眠ることはできなかった。不安が黒い雲のように、マロンの心の中に広がりはじめている。ただの夢だ……と言われれば、そうなのかもしれない。だが、キャロットの身に何かが起こるような気がして、マロンは不安だった。もしも、夢のようにキャロットがいなくなってしまったら? ……考えたくもない。
だけど……と、心の中でもう一つの声がする。だけど、もしもキャロットに危険が迫っているのだとしたら。そうしたら、持てるすべての力で、キャロットを守ろう。幼い頃に誓ったように……自分はその為に、強くなろうと誓ったのだから。
次の日、ビック・マムから仕事の依頼が来た。場所は、帝都から南へ歩いて三日のところにある、デアザートという街だ。
ここの領主は、グレリア伯爵という法族で、庶民にも慕われている人物だった……数カ月前までは。デアザートのステラ教会の報告によると、ここ数カ月のうちに、デアザートで行方不明事件が相次いだ。それと前後して、グレリア伯爵は館から出てこないようになり、館で働いていた庶民も全く家に帰ってこない。心配して様子を見に行った者までが帰らなくなり、人々は脅えている。
依頼してきたのはデファイスという庶民の夫婦で、働きに行っていた娘が帰ってこなくなったため、生きているのなら救出を、死んでいるのなら仇を……という依頼内容である。館で化け物を見たという噂もあり、行方不明になっている人の数を考えても、放っておけない事件だった。
グレリア伯爵の館から、林を挟んだ小高い丘の上に、キャロット、マロン、ガトー、ティラ、ショコラが立っている。三日の旅程を半分にして、デアザートに着いたばかりだ。
「まずは、その娘の生死を確かめなければならないんですのね」
ティラが館を見ながら呟く。
「なんか、活気がないお屋敷だわね。手入れしてないみたい」
ショコラの声に、全員が頷く。確かに、館はまるで手入れをしていないように、一言で言えば荒れている。
「とにかく、全員でいきなり行くのもどうかと思うぜ。まずは、その娘が生きているかどうか、忍び込んで確かめないとな」
「そうですわね。それじゃあ……」
「よしっ、俺が行ってくらあ!」
皆が何も言わないうちに、キャロットが駆け出してゆく。大抵、一番最初にターゲットの屋敷に忍び込むのは、キャロットなのだ。無鉄砲というべきなのだろうが、小柄で逃げ足が速いので、実は偵察に向いている。実際、忍び込むのは得意中の得意だ。……その時に起こすポカと、行動の原点である不純な動機はまったくの別として。
「ああん、ダーリン! 一人じゃ駄目よう、あたしもいくわっ」
「だーっ、ショコラッ! お前はこなくていいっ」
「オネーサマ!」
ついていこうとするショコラを、ティラが憤慨した様子で止める。……キャロットとショコラを、二人きりにするのが嫌なのだ。
「なによう、ティラ! あたしはね……」
「何を目的としているのか、一目瞭然ですわっっっ」
そんな二人のやりとりを、ガトーが呆れた様子で眺めている。その三人の脇を、マロンが擦り抜けた。
「僕が行くよ」
「えっ……?」
「マロンちゃん……?」
珍しい台詞に驚いて、ティラとショコラは動きを止めた。ガトーもきょとんとした表情をしている。それほど、マロンがキャロットと二人きりで行動するのは珍しい。いつもなら、一人でつっ走っていくキャロットを、後ろから眺めてフォローするのがマロンの役だった。たぶん意識的にだろうが、キャロットと同じ行動を取るのを避けているふしがある。
「珍しいな」
ガトーが素直な感想を口にした。ティラとショコラは頷いて、真剣な表情を取り戻す。
「マロンちゃん、この前からなんだか、落ち込んでいましたのよ……」
「何か心配なことでもあるのかしら?」
「何にしても、その原因はキャロットにあるらしいな」
ガトーの言うとおりなのだが、夢のことなど三人は知る由もない。おかしいとは思いつつ、黙って二人を見送った。第一、そのせいでマロンの仕事ぶりが、悪くなるとは思えなかった。
「あたし達は待機ね」
「マロンちゃんが、合図をしてくれますわ」
言いながら、ティラは空を仰いだ。黒い雲が空をおおっている。遠くの方では、ゴロゴロ……と雷らしい音もする。……嵐が近いのかもしれない。
「雨が振り出す前に、合図がほしいぜ」
ガトーが呟いて、草の上に座り込んだ。
一方、キャロットとマロンは、林の中を館の方へと進んでいた。
「マロン、……何かあったのか? この前から、何か、変だぜ」
途中、キャロットが振り返ってマロンに聞く。いつもの砕けた表情は陰を潜め、真剣な顔だ。
「……ううん、何でもないよ……」
「本当か?」
「うん」
キャロットはまだ何か言いたそうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。マロンも、まさか夢のことで悩んでいるとも言えず、曖昧に誤魔化してしまう。
「へえ……館の向うは、海なんだな」
ようやく見えてきた館を眺めて、キャロットが呟く。その言葉に、マロンは内心で驚いていた。……海……そう、海だ。マロンをこんなに不安にさせているあの夢で、キャロットを奪っていったのは、海だった……。
林の間、館の向こう側に見える海は、嵐の到来を間近に荒れている。その様子が、まるで夢の中でキャロットが消えていった波を思い起こさせ、マロンはぞっとした。
「マロン……おい、マロン?」
呼び掛けられて、はっとする。キャロットが訝しげな顔をして、マロンを見ている。
「あ、ごめん」
「しっかりしろよ」
「……うん」
先に立って歩きながら、キャロットはマロンのことが気にかかっていた。この前から、どうも様子がおかしい。何か心配事があるようなのだが、それを素直に話すマロンでもないので、事情はまったくわからない。
でもまあ、マロンなら大丈夫さ……と、キャロットは心の中で呟く。何があっても、マロンなら大丈夫だと、無邪気に信頼しているのであった。
「貴方達!」
不意に、二人に声が掛かった。一瞬、緊張を走らせ、二人はその方向を向く。
フード付のマントをきた人物が、二人から少し離れた場所に立っている。
「何処へ行くの? 死にたくなければ、この先の屋敷には近付かないで!」
声から察するに、どうやら女らしかった。
「どういうことです?」
マロンが尋ねる。女は答えない。二人の間に、緊張が高まる……。
だが、その時突然、場の緊張感を粉々にする声が響いた。「お嬢さんっ! 奇麗な声ですねっ! 僕とデートしませんかっ?」
……キャロットである……。
「兄さん……」
呆れたように呟くマロンを尻目に、キャロットはその女に抱きついた。……怖るべき早業である。
「きゃあああああ! なに、なんなのっ」
女が悲鳴を上げて抵抗する。いつもなら、すぐにティラやショコラがつっこみに掛かるのだが、今日ばかりは二人ともいない。
「お嬢さんっ 」
「嫌あっ、どこ触ってんのよっ!」
女は必死に抵抗した。……その内に、マントの留め金が壊れ、女は素顔をさらすことになった。
「! 君は……!」
マロンが驚いて声を上げる。キャロットも動きを止めた。
女は、金の髪と金の瞳をした、美女だった。だが、狐のような耳と、ふさふさの尻尾を持っていたのである。
「き、君はいったい……?」
キャロットが呆然と声を出す。女は思いっ切りキャロットを突き飛ばした。キャロットはその勢いで、すぐ側の樹の幹に激突する。
「……見られちゃったら、仕方ないわね。あたしは、キャン……キャン・デー。人狐族よ。……と言っても、有翼人種と同じ様に滅びかかっている種族だから、知らないでしょうけど」
人と狐のあいのこのような人狐族は、確かに文献には登場するが、幻の種族とされている。実際、マロンも会うのは初めてであった。
「その君が、何でここに?」
「あたしは、ケイエスという奴を追っているの。あの館には、其奴がいるのよ」
「ケイエス?」
「そう……人間をモンスターに変えてしまう秘術を持っている化け物よ」
キャンはそう言うと、いまいましそうに爪を噛む。
「だから、モンスターにされたくなかったら、あの屋敷には近付くなって言ってるのよ」
「お嬢さんっ」
そう言い捨てたキャンに、復活したキャロットが再び抱きつく。キャンがまた悲鳴をあげて、突き飛ばそうとする。
「ええい、離れろっ!」
キャンは叫ぶと、キャロットを殴り飛ばす。マロンは溜め息をついて、もう一度口を開いた。
「僕達は、あの館から帰らなくなってしまった女性を、救出に来たんです。帰る訳にはいきません」
「そうだぜ! 俺達も仕事なんでね! だから……」
再び復活のキャロットが、三度キャンに抱き着く。キャンが人狐族であることなど、キャロットにとってはあまり問題ではないらしい。
「一緒に行きましょう、可愛いお嬢さんっ!」
「きゃああああ! 離れろーっ!」
「兄さん……」
もう一度キャロットが殴り飛ばされるのを、マロンは複雑な気分で見ていた。
グレリア伯爵の館は、静まりかえっていた。この館は、法族の館の中でも大きい方だ。普通なら、メイドや使用人、警備の者などが大勢働いているはずだ。なのに、外から伺った限りでは、そういった人間の気配がないだけでなく、天気が悪くて暗いというのに、明かりも満足についていない。庭や館の手入れもまるっきり放棄されていて、荒れるに任せてある。……異常な光景だった。
「誰もいないのか?」
塀を乗り越え、庭に着地してから、キャロットが呟く。続けて入り込んだキャンが、くんくんと空気のにおいをかぐ。
「そんなはずはない……奴のにおいの他に、人間のにおいもしてる」
「わかるんですか?」
「あたし達は、人間よりも鼻がきくのよ」
「おい、ここ開いてるぜ」
窓の一つが、半分開いている。三人はそこから中へと侵入した。
館の中も、外とかわらない現状だった。人が住んでいるという、基本的な気配が感じられない。
「どうなってんだ」
「……地下から、気の流れを感じる……」
キョロキョロしているキャロットの呟きに、マロンが答える。
「そうか? じゃ、行ってみよう!」
一人呑気なキャロットを後ろから見つめ、キャンが溜め息をつく。
「なんて緊張感のない……」
「そういう訳じゃありませんよ」
答えながら、マロンは少しむっとしている。些細なことでも、キャロットをけなされるのはなんとなく面白くない。
「……貴方、あの人がとても好きなのね?」
「えっ……」
急なキャンの言葉に、マロンが初めて動揺する。キャンはくすりと笑うと、言葉をつなげた。
「においでわかるわ。貴方は、あの人がとても好きで、大事にしてるって」
「……」
言葉に詰まっていると、キャンはもう一度微笑んだ。
「あの人も、すんごい軽薄でスケベに見えるけど……本当はすんごく優しいってことはわかるわ」
「……うん」
「おーい、何してんだ! あっ、キャンちゃん、疲れたんならおぶってあげるよ!」
先に行ってしまったキャロットが、立ち止まって呼んでいる。……緊張感の欠片もないのだが、いつものことだ。むしろ、ティラもショコラもいないのに、キャンにあまり積極的なアプローチをしないことの方が珍しい。
「! 誰か歩いてくる」
通路の向こう側を伺っていたキャロットが、歩いてくる人影を見つけた。近くの扉の中に入り、その人物が通り過ぎるのを待つ。
「! な、なんだありゃ……」
扉の隙間から、その歩いてきた人物を見た三人は、息を飲んだ。
歩いてきた人物は、メイドの服を着ていた。だが、人間ではなかった。狼とも違うが、獣の顔だった。手足も獣毛に被われている。
「……人工的に造られたモンスター?」
「そうよ。あれを造り出すのが、ケイエスの秘術よ……人間を変えてしまうの」
「じゃあ、元人間ってことか?」
「そうよ」
キャロットの言葉を、キャンがあっさり肯定する。
「じゃあ、行方不明になった人達が……!」
「今の獣人も、きっとそうだわ」
「許せねえぜ!」
キャロットが立ち上がる。再び、先頭に立って歩き出した。正義感は人一倍なのだ。
「モンスターに変えられた人間を、元に戻せますか?」
「残念だけど、無理よ」
マロンの問いに、悲しそうにキャンが答えた。
メイド服の獣人が歩いてきた方向に、地下への階段を発見する。
「……何か、聞こえないか」
階段に足を掛け、キャロットが振り向いてマロンに尋ねた。
「……これは……泣き声だよ、兄さん」
同じ様に耳をすまし、マロンが答える。……地下から、泣き声が響いてくるのだ。
「ぬわに! 泣き声? 女の子か?」
「……さあ」
「とにかく、女の子が泣いているのなら、一大事!
行くぞ、マロン!」
言うが速いか、キャロットは階段を下りてゆく。結局はそこに思考が行き着くことになっているのだ。マロンは少し、キャンは完全に呆れた顔をして、キャロットの後を追った。
しばらく階段を下りると、通路に突き当たる。三人は一度立ち止まったが、泣き声の聞こえてくる方を選択した。キャンも少しためらったが、何も言わずにキャロット達の後を追った。
通路には、さすがに蝋燭の明かりが続いている。もちろん、暗いことにはかわりがないのだが。
「……! 牢屋だ!」
たくさんの人の気配がする。それもそのはず、牢屋には男女問わず、大勢の人間が閉じ込められていたのだ。
「あっ……助けて!」
牢屋の中にいた女性が、三人に気付いて身を乗り出した。牢屋の中がざわついて、皆が鉄格子のそばに寄ってくる。口々に助けを求めるのを、マロンが制した。
「しっ、静かに……僕達は、貴方達を助けに来たんです」
「鍵がそこの壁に掛けてあるわ! お願い、早く助けて……」
女性の声に、キャロットが壁を眺める。鍵の束が引っ掛けてあった。
「これだな?」
「赤い石のついている鍵です……」
奥の方にいた男性が、キャロットに教える。着ているものからすると、どうやらこの館の警備をしていた者らしい。
「デファイス夫妻のお嬢さんはいますか?」
「はい、あたしです」
マロンの問いに、可愛い少女が答えた。
「良かった。僕達は、貴方のご両親の依頼で来たんです」
マロンは微笑むと、護符を取り出し、光り輝く犬に変える。犬は物凄いスピードで、元来た道を駆け戻っていく。キャンが驚いた表情でそれを見た。
「あれは……?」
「仲間に合図したんです」
「開いたぜ!」
キャロットが嬉しそうな声を上げる。
「慌てないで……静かに」
マロンがそう告げた瞬間だった。キャンが勢い良く振り向く。
「しまった! 気付かれたわ!」
キャロットとマロンがその声に振り向いた。牢屋の中の人々から、悲鳴が上がる。
ぐるるる……と、唸り声が聞こえた。段々とこちらに近付いてくる。
「……! 獣人だ……」
「うぎゃー、やべえぜ!」
キャロットが焦った声を出す。魔法戦以外では、キャロットは非力の一言に尽きる。あまり役に立たない。
「くっ……」
キャンが腰の短剣を抜く。マロンが、護符を構えた。
「兄さん、ここは僕らが食い止める! その人達を上に!」
「お、おう」
マロンはキャロットの返事を確認し、護符を放った。マロンの唱える呪文の声に反応し、護符は次々と鳥や、狼のような獣、餓鬼に変じる。それらが、迫ってきた獣人をなぎ倒すのを見て、キャロットは牢屋の扉を開け放った。
「今の内だ! 速く!」
隙を見て、キャロットが人々を誘導する。マロンの東方魔術と、キャンの短剣技が道を開いてくれたのだ。
キャロットは、マロンを全面的に信頼している。決して負ける訳がないと信じているので、安心して敵の中に置いていくこともできるのだ。もちろん、人々を地上に逃がしたら、自分は戻るつもりだった。
「貴方達、本当にお互いを信頼してるのね」
獣人を切り裂きながら、キャンが背後のマロンに声をかける。マロンは答えなかったが、キャンは答えを聞かなくてもわかると思った。キャロットがマロンを信頼して置いていけるように、マロンもキャロットを信頼して人々を託すことができるのだから。
何処から現れるのか、獣人は次々と数を増やしている。決して強い敵ではないが、二人はゆっくりと地上に向かって後退を始める。今にも駆け付けるであろう、頼もしい仲間と合流するためだった。
一方、捕まっていた人々を先導したキャロットは、獣人に出合うこともなく、無事に一階に戻ってくることができた。
「街まで全力で逃げろ! 急げ!」
勢い良くドアを開け放ち、キャロットが叫ぶ。人々はお互いを励まし合い、街へ向かって走り出した。これで、依頼の『娘の救出』は果たせた。後は、すべての元凶であるケイエスを始末すれば、事件は終わる。
逃げ出していく人々を横目に、キャロットはマロン達の所へ戻ろうと振り向いた。その時、人々の最後尾のあたりで、いきなり悲鳴があがる。
「何っ?!」
驚くキャロットの目に、今にも飛びかかろうとしている獣人が写る。
「危ねえっ!」
キャロットは叫んで、全力で走った。そのまま、思いっ切り体当りして、獣人と一緒に床を転がる。
「逃げろ! 速く!」
キャロットが叫ぶ。その首に、獣人が手を掛けた。
「……! しまっ……ぐっ」
凄じい力で、ぐいぐいと締め付けてくる。更に、空中に宙吊りにされると、急速に意識が混濁してくるのがわかった。いけない、とは思うのだが、暴れても獣人はびくともしない。やがて、抵抗して暴れていたキャロットの体から、力が抜けていく。
「ダーリン!」
不意に、聞き覚えのある声がキャロットを呼んだ。ショコラ……と考える間に、駆け付けたショコラの放った針金が、獣人の頭を貫き、キャロットの命を救う。キャロットは床に投げ出され、激しく咳込んだ。
「キャロ! 大丈夫?」
すでに女王様スタイルのティラが、キャロットに駆け寄ってくる。
「おせえぞ、お前ら……」
「マロンは?」
「地下だ……皆を逃がすのに戦ってる」
言いながら、キャロットが立ち上がる。調度よくその時、マロンとキャンが駆け戻ってきた。
「あの娘、誰?」
キャンに気付いたショコラが、訝しげな声を上げる。
「敵じゃねえよ。話すと長くなるんだが……目的は一緒だ」
「みんな!」
マロンが、ガトー、ティラ、ショコラを見つけてほっとしたような表情を造る。
駆け寄った六人は、手短に情報を交換した。取り分け、キャンのもたらした情報が、ティラ達を驚かせる。
「じゃあ、今度のターゲットは、伯爵じゃなくて……そのケイエスってこと?」
「そういうことになるな……事情はよくわからねえけど、おそらく伯爵も……やられたんだと思うぜ」
「奴は地下にいるわ」
キャンがはっきりと言い放つ。
「さっきの、牢屋とは逆の方向へ行けば、奴がいるわ」
「おし、行くぜ!」
キャロットが先頭に立って歩き出そうとする。
「待って! ……貴方達は、彼らの救出にきたんでしょう?だったらもう、目的は果たしたんじゃないの?」
「……キャンちゃん?」
キャンの台詞に、キャロットが振り返った。みんなが一斉にキャンの顔を見る。
「あたしは、一族を殺された復讐できてるのよ。でも、貴方達は違うんでしょう? だったらもう、かかわらない方がいいわ! ……あいつは、ケイエスは恐ろしい化け物なんだから!」
キャンはまだ、キャロット達が法族狩りであることを知らない。マロン以外の人間の、実力も知らないのだ。その為に出た、心配の言葉であろう。キャロットが近付いてきて、ぽん、とキャンの肩を叩く。
「俺達は、正義の味方だぜ。悪党は倒さなきゃならないだろう?」
「……」
キャロットにしては珍しく、真面目な台詞が語られる。ティラが思わず感動した次の瞬間、またもや場の緊張感を打ち壊す声が響く。
「それに、君みたいな可愛い子を、一人になんかできないさ! どうっ、仕事が終わったらデートを!」
「きゃあああ!」
抱きつかれたキャンが悲鳴を上げる。間髪入れず、ティラとショコラの一撃が、キャロットを床に轟沈した。
「もう! キャロったら!」
憤慨しているティラとショコラの顔を見比べて、キャンは微笑む。……キャンには、二人の心がわかるのだ。
「じゃあ、行こうぜ」
黙って成行きを眺めていたガトーが、指の間接を鳴らしつつ歩き始める。キャロットもすぐに復活したが、ティラとショコラににらまれ、キャンへのアプローチを断念した。
歩くマロンの隣に、キャンが近付く。
「面白いわね、貴方達」
「何がです?」
「あのすけべなお兄ちゃんがいなかったら、夜も日も明けない人達の集りみたいなんだもの」
「……」
「あ、でもあのガトーって人は違うみたいだけどね」
キャンはそれだけ言うと、足を早めてマロンを追い越した。
「お客さんが来たぜ」
階段のところにたたどりついたガトーが、嬉しそうに言う。ティラとショコラの瞳が、途端に戦う瞳に摺りかわる。高飛車女王様と、冷酷な殺人機械の登場である。
階段の下からは、あの獣の唸り声が響いてくる。
「行くぜ!」
ガトーの声が合図だった。一斉に、ガトー、マロン、ティラ、ショコラ、そしてキャンが動く。階段を登ってくる獣人と、戦闘に突入した。
「可愛い小犬ちゃん達! 可愛がってあげるわねっ!」
ティラが高笑いと共に、鞭を振るう。ティラにかかっては、獣人だろうが、狼男だろうが、魔獣化したキャロットであろうが、皆等しく『小犬ちゃん』なのであった。飛び掛かってくる獣人が、その鞭に跳ね飛ばされる。それを狙って、ショコラの針金が空を走った。正確無比なその技は、確実に獣人の急所を貫く。
「おらおらっ! 退きやがれ!」
ガトーがニヒルな笑いを浮べたまま、次々に獣人を殴り飛ばしている。これにマロンが加わると、キャンの出番はほとんどなかった。キャロットは最初から応援以外に何もしていない。魔法戦以外では自分が役に立たないことを、キャロットはよくわかっているのだ。下手に動けば、逆に足を引っ張る。
一分と掛からず、階段上の獣人は全滅した。さっき通った通路に降り立つ。
「こっちだな?」
牢屋とは逆の方向に、六人は走り出した。前方、進めば進むほど獣人が現れるのだが、とにかく相手にならない。キャンは内心、底知れない四人の実力に感心している。後一人……キャロットは、なんだかわからないが。
通路の突き当たりに、ドアがある。どうやらそこが、目当ての場所らしい。
「でえいっ」
キャロットがドアを蹴破った。続いて五人が走り込む。
中は広い、ホールのような部屋だった。床になんだかよくわからない模様が描かれており、知らない匂いの香がたいてある。壁にたくさんの蝋燭が灯っており、暗くはない。部屋の向こう側にもドアがあった。中にいる獣人は半端な数ではなかったが、とにかく雑魚だ。マロンの術が、ティラの鞭と糸が、ショコラの針金が、ガトーの拳が、次々となぎ倒す。
「ケイエス!」
獣人を切り倒しながら、キャンが叫んだ。
「出てきなさい!」
まるでその声に答えるかのように、奥の扉が開いた。黒いフード付のローブを、頭からすっぽりと被った人間が出てくる。同時に、獣人達は戦いをやめ、その人物の脇に下がった。
「お前がケイエスか 」
五人の前に出て、キャロットが叫ぶ。フードの人物は、喉の奥で笑った。
「いかにも」
ケイエスがフードを外す。キャン以外の五人は息を飲んだ。頭が二つある、醜悪な獣人がそこにいた。キャンは唇を噛み締め、ケイエスを睨みつける。
「グレイア伯爵をどうしたの?」
ティラが鞭を両手でぴん! と張りながら、ケイエスに聞く。
「知らんな。そこに倒れている奴らの中に、いるかもしれん」
ケイエスの、右の頭が答える。
「何のために、人間をモンスターに変えてやがるんだ?」
「目的などないわ」
今度は左の頭が呟く。獣の顔を歪めて……あれは、笑っているのだろうか。
「この街は選ばれた。それだけのことだ」
「こいつに目的なんかあるわけないわ! 人間をモンスターに変える、それを楽しんでいるだけなんだから!」
キャンが叫ぶ。怒りと憎しみが、声を震えさせた。
「……人狐族か」
ケイエスは二つの頭で嘲笑した。
「滅びた種族が何の用だ」
「ふざけるな! お前が滅ぼしたんじゃないかっ!」
「あっ、キャンちゃん!」
「キャン! 駄目よ!」
キャロットとティラの声を無視し、激昂したキャンが、短剣を抜いて飛び掛かる。
がばっ、とケイエスの右の口が開く。
「! いけない!」
マロンが護符を放つのと、ケイエスの開いた口から、凄じい炎が吐き出されるのはほぼ同時だった。
「きゃあああ!」
ケイエスの炎と、マロンの護符が激突し、その衝撃波がキャンを吹き飛ばす。壁に激突し掛かるのを、キャロットが抱き止めた。だが、勢いあまって床に転がってしまう。それでもキャンをかばったのだけは、立派であろう。そのかわり、キャロットは頭を打った。
「いててて……だっ、大丈夫か、キャンちゃん?」
「え、ええ……」
キャンが慌てて立ち上がる。ケイエスの炎を真面に受けていたら、怪我ではすまなかっただろう。キャンは自分の軽率さを恥じた。
「さあ、行け! お前達!」
ケイエスが手を振る。残っていた獣人が、一斉に飛び掛かってきた。
「白虎!」
マロンが護符を放った。護符は一瞬に白銀の虎へと変じる。白虎は一度地を蹴り、そのまま獣人の群れに突っ込んでいく。
ティラの鞭が唸り、ショコラの針金が走る。ガトーの拳が、次々と獣人を殴り飛ばす。立ち直ったキャンも、戦線に復帰した。……あまり役にたたないキャロットの応援も復帰する。
獣人が全滅するのに、数分と掛からなかった。
「さあ! 残るは貴方だけよ!」
ティラの鞭が、床をピシッ! と打つ。他の五人が身構えながら、ケイエスを取り囲む。形勢は完全に、六人に有利に見えた。だが……。
ケイエスは笑っていた。六人に囲まれて、なお余裕だった。
「元々非力な人間の、成れの果てに勝利したからといって、勝ち誇られては困るな」
「何だと?」
ガトーが叫ぶ。その瞬間だった。急に地面に振動が走る。
「何だ?」
「うわあああ!」
地面が割れた。そこから何かが、物凄い勢いで飛び出してくる。それでも六人は、天才的な身のこなしで、最初の襲撃をかわした。
「なっ……これは……」
「触手?」
何本もの、蛇のような触手。それが地面から生えている。
触手とケイエスの間の地面が、更に割れていく。触手はケイエスの背中から生えていたのだ。触手は一度動きを止めたが、すぐに六人を狙って空間を走る。
「うわっ」
「危ねえ!」
触手の動きに法則性はなかった。上下左右、あらゆるところから高速で六人を襲う。今の所、すんでのところでかわしてはいるが、このままではその内にかわしきれなくなるのは明白だった。
「このっ……!」
ティラが紡ぎ糸をケイエスに向けて放つ。ショコラも同時に、針金を飛ばした。……だが。
「ええっ?!」
「そんな?!」
ケイエスの爪が、ギュン! と長く伸びる。それを一閃させると、なんとティラの糸とショコラの針金が、あっさりと切り落とされた。その一瞬の隙に、触手がティラとショコラを叩き飛ばす。
「きゃあああ!」
「あああっ!」
「ティラっ! ショコラっ!」
必死に触手を避けていたキャロットが、一瞬二人に気を取られる。
「危ないっ! 兄さんっ!」
「えっ、あーっ! しまったっ!」
マロンの声にはっとした時には、すでに遅い。触手は鋭い刃のように、キャロットの体の各所を貫いていた。そのまま勢いに押され、壁に激突する。
「ぐわああああ!」
「兄さんっ!」
「キャロっ!」
「ちっ、このヤロー!」
ガトーが触手の一本を捕まえる。そのままひきちぎった。
「今、全部引きちぎってやるぜ!」
「出来るかな?!」
「あたしもいるわ!」
キャンの短剣も、触手を切断した。キャンにはわかっていた……ケイエスが、わざとキャロットを狙ったことを。その前に触手に弾かれたティラとショコラが、無傷なことでもそれがわかる。マロン達にとって、一番傷付けられたくない存在を、わざと傷付けて楽しんでいるのだ。実際、キャロットの傷は急所を避けている。
ティラとショコラは立ち上がった。瞳が怒りに燃えている。
「兄さん!」
一方、マロンは壁に叩き付けられたキャロットに向かって走った。キャロットは壁に寄り掛かるようにして座り込んだまま、すでに意識がない。両手足、右の肩、左の脇腹を貫いた触手が、ずるりと血を滴らせながら抜けてゆく。
「キャロっ! しっかり!」
ティラも駆け寄ってくる。マロンが揺り動かしたが、キャロットはぴくりとも動かなかった。貫かれた傷口から、大量に血が流れ出していた。
「……ティラ、兄さんを頼む」
「ええ」
屈み込んでいたマロンが、ゆらっ……と立ち上がる。それを見上げながら、いつものことなのに、ティラは戦慄を覚えずにいられない。
ガトー、ショコラ、キャンも驚いて動きが止まった。……同時に、あれほど余裕の態度を造っていたケイエスさえも。
ゆっくりと、マロンがケイエスを振り返る。
「……何……?!」
ケイエスが始めて動揺した。冷厳なるオーラが、マロンから発せられてケイエスを圧倒している。
「馬鹿ねあいつ……」
「えっ?」
ショコラの呟きに、キャンが聞き返す。ショコラの瞳には、憐れみのような光がある。
「……マロンを本気で怒らせやがった」
ガトーがショコラに応じた。キャンはもう一度マロンを見る。そしてその意味をはっきりと理解した。
マロンが、キャロットをとても好きで、大事にしている……と、言ったのはキャンだった。キャンはその言葉を、ほんの少し訂正する。あの人はキャロットが、命よりも大事なのだ……と。
「許さない……兄さんを傷付けた奴は、絶対にっ!」
それまでゆっくりとした動作だったマロンが、叫びと共に急激に動く。
護符が三枚、ほぼ同時に放たれた。その一枚一枚が、白い虎、青い龍、真紅の鳥に変化すると、それぞれの色の激しいオーラを放ちながら、ケイエスに襲い掛かる。
「……四神を三体も同時に……! マロン……」
キャロットを治療していた、ティラが呟く。輝きが、部屋全体を満たした。
「なにい……ぐわあああ!」
三つの光の乱気流を、ケイエスは真面に受けた。閃光に部屋全体が包まれ、その場にいた全員が瞳をかばう。
激しい爆発が起こった。地面が上下に揺れる。
「……やったか?」
ガトーが、目と頭をかばっていた腕を降ろしながら呟く。
「冷たい……雨?」
ショコラははっとした。天井部分が吹き飛んで、空が見えている。外はすでに嵐になっており、雨と風が、地下の広間に吹き付けてくる。
「ケイエスは?」
キャンが、ケイエスの立っていたあたりを伺う。床が円形にえぐられている。
「粉々に吹き飛んだのか?」
ガトーが呟いた。誰も返事はしなかったが、そうとしか考えられない。
「ティラ、兄さんは?」
マロンが振り向く。ティラはまだ、キャロットの傷を治療している。
「命に別状はないわ」
ティラが答えた時、キャロットが呻いた。ゆっくりと目を開ける。
「キャロ! 気がついた!」
ティラが嬉しそうな声を出す。キャロットは少しぼーっとまわりを見ていたが、やがて状況を思い出したのか、がばっ……! と身を起こす。
「いててっ……」
「急に動かないで! まだ傷が……」
「あいつはっ?」
「あいつなら、マロンが倒したわっ」
ティラが立ち上がりかけるキャロットを押しとどめる。他の四人も、キャロットとティラの元に集り始める。
「兄さん!」
マロンの声に、キャロットはそちらを見た。その瞬間、とんでもないものを見つけて、思わず叫ぶ。
「危ねえっ!」
叫ぶなり、痛む体にかまわず立ち上がる。驚く全員を他所に、キャロットはマロンの元へ走った。
「えっ……?」
マロンは振り向いた。その瞬間、ケイエスが吹き飛んだあの場所の土が、更にゴバアッ!と吹き飛び、触手が飛び出してくる。触手は立ち尽くすマロン目掛け、物凄い勢いで空を走った。
「!」
「マロン!」
キャロットがマロンに飛び着いて、一緒に床を転がる。その際にキャロットは、痛めた体を再び床に叩きつける結果になり、立ち上がれなくなってしまう。
「兄さん!」
「この化け物!」
ショコラが針金を飛ばす。針金は次々に、触手を貫いた。だが、触手の動きは止まらない。ズズズ……と地面が振動し、「それ」は這い出した。
「……ケイエス……!」
キャンが戦慄した表情で呟く。それは、ティラも、ショコラも、ガトーも、マロンも同じだった。だが……。
「おのれえええ……!」
はい出したケイエスは、すでにぼろぼろだった。やはり、マロンの攻撃はケイエスにとって致命傷だったのだ。触手を使って地面に逃れたのだろうが、その方が奇蹟に近い。
「侮っておったわ……お前達の力を……!」
「ちっ、さっさとくたばりやがれ、この化け物っ!」
ガトーが殴り掛かろうとする。その動きを、触手の一撃が牽制する。ガトーは上手くそれをバックステップで避けた。「こうなっては……我の命はつきる……くくく、嬉しいか人狐族の娘……」
「……」
キャンは答えなかった。ただ、黙ってケイエスを睨んでいる。
「だが……ただでは死なぬ……くくくっ」
触手が一斉に動いた。さっきよりもずっと速い。油断していた訳ではないのに、五人はそれぞれに一撃ずつ体に受けた。キャロットの側にいたマロンも、触手にはね飛ばされる。
「うわあああ!」
「きゃああっ!」
「ふははははは!」
五人の叫びに、ケイエスの笑い声が重なる。
「ああっ……駄目えっ!」
キャンが叫んだ。四人がはっとする。
「兄さん!」
「キャロ!」
「ダーリンっ!」
「しまった……!」
五人を弾いた触手が、一斉に引いていく。その触手に、キャロットが絡め取られているのだ。キャロットは意識がないのか、ぐったりとしたまま動かない。
ケイエスは、狂ったように笑っている。そのまま、身を翻し、嵐の中へと逃げ出してゆく。もう死ぬ寸前の体とは、とても思えない身のこなしだった。追いすがる五人を、触手が牽制する。
「待ちなさい!」
「あいつ……何でダーリンをっ 」
「……貴方達が、あの人をとても好きだからよ」
キャンが呟く。辛そうな一言だ。
「あいつは……ケイエスは……人の大事なものを奪うのが楽しくてしょうがないのよっ」
「そんなっ……キャロっ!」
ティラの顔から、血の気が引く。
ケイエスは館の、林とは逆の方向へ逃げた。……そう、嵐に激しく荒れている海を、見下ろす断崖へと。
キャロットは、触手の中に完全に絡め取られている。このままでは、マロンも術を掛けられない。それはティラの糸も同じだ。
正確無比の技を誇るショコラの針金が、キャロットを避けてケイエスに突き刺さる。だが、執念だけで動いているケイエスを、止めることが出来ない。
「ヤロー、待ちやがれ!」
ガトーが触手を掴んで、思いっ切り引き止める。さすがにケイエスは、前進の動きを止められた。
「お前はもう終わりよっ! おとなしくその人を返しなさいっ」
キャンが叫んだ。ケイエスは完全に立ち止まり、振り向きざま、ガトーに捕まえられた触手を、自分の爪で切り捨てた。
「ははは、お前達の心が流れ込んでくるぞ! そんなに大事か、この男が!」
「ダーリンを放しなさいっ!」
ショコラの針金が、今度はケイエスの右の頭の額を貫く。しかし、左の頭が叫んだ。
「くくく……こいつは我が、地獄まで道連れにしてやるわ……!」
「させない!」
「キャン!」
キャンがケイエスに飛び掛かる。左の頭を、短剣が突き通した。しとめたかに見えた、その瞬間、キャンを触手が跳ね飛ばす。ケイエスは左の頭で絶叫し、右の頭で笑い続けている。だが、その間に触手は蠢き、キャロットを断崖から海へと投げ捨てる。
「兄さん!」
「いやああああっ、キャローっ!」
マロンとティラの絶叫が重なる。ショコラが再び針金を放った。ショコラの針金は、落ちていくキャロットの左腕に巻き付いて、間一髪の所で落下を免れた。
「朱雀……火炎獄!」
マロンが護符を放った。現れた炎の聖鳥は、満身創意のケイエスを、紅蓮の炎に包み込んだ。断末魔の悲鳴があがった。
「やったわ! 今度こそ!」
キャンが叫ぶ。だが、炎に包まれながら、なおケイエスが動いた。
爪の一閃が、ショコラの針金を断ち切る。
「ああっ……!」
「キャロ!」
「兄さんっ!」
辛うじて針金だけで断崖にぶらさがっていたキャロットは、命綱である針金を断ち切られ、暗く荒れ狂う海へと落下した。それとほとんど間をおかず、ケイエスはぼろぼろと崩れ落ちた。……高く笑い声をあげながら。
「あ……あ……っ」
ティラが、がくがくと震えながら、地面に座り込む。ショコラは立ち尽くしたまま、呆然自失状態だ。それはキャンも同じである。
「そんな……兄さん!」
マロンは叫んで、自分も断崖から飛び込みかけ、ガトーに止められた。
「放してくれっ、ガトー!」
暴れるマロンを押さえ付けながら、ガトーが叫ぶ。
「馬鹿! お前まで死ぬ気かっ それでキャロットが喜ぶのかっ!」
「……!」
その言葉が、マロンの体から力を抜いた。ガトーがマロンを放すと、マロンはそのまま膝を落とし、やがてうずくまった。そしてそのまま、長い間動かない。それを、ガトーが哀憐の瞳で見ている。
やがてキャンが、ガトーに近付いた。頬が濡れているのは、風雨のためか、あるいは。
「貴方達には、借りが出来たわ。必ず返す。貴方達は、どこに連絡を取ればいいの?」
真剣な瞳に押され、ガトーはステラ教会だ、と答える。キャンは頷くと、そのまま歩き去った。
三人は長い間、動かなかった。ガトーもそれを見ていた。ふと、激しい嵐の風と雨の音に紛れて、マロンの嗚咽を聞いた気がした……。
海は荒れ狂っていた……あの夢と同じように。マロンは、夢と同じ海に、キャロットを失ったのだった。
事件は確かに解決した。二度とデアザートは、行方不明事件に脅えることはない。だが、その為にマロン達が受けた打撃は、これ以上ないほど大きなものだった。マロンも、ティラも、ショコラも、あれ以来笑ったのを見ていない。立ち直るまでにどのくらいの時間が必要なのか、それは誰にも分からない。
本来、戦いの中で誰かが死んでいくのは、法族狩りの人間として、当然のことだ。その心構えも、出来ていてしかるべきだった。……だが、それでも。それでも、キャロットだけは特別な存在だった……。
ステラ教会本部に戻った四人は、長い休暇を与えられた。休息が必要と、マムが判断したためだ。体よりも、心の。
ティラが、マロンの部屋を尋ねてきたのは、そんな休暇に入って、少したった夜のことだった。
「……マロンちゃん? もう、お休みですの……?」
「……起きているよ」
真っ暗な部屋に声を掛けると、ベッドに着替えもしないで寝転がっていたマロンが、起き上がって明かりをつけた。
「……眠れないんです。少し、お話に付き合ってくださいませ」
「……うん」
マロンがお茶を入れる。紅茶のいい香りが、部屋に広がる。
そのまま、ただ黙って、二人はお茶を飲んだ。
「……ショコラは?」
「ガトーと一緒に、お酒を飲みに行きましたわ……マロンちゃんは飲めませんものね」
それっきり、また言葉がとぎれる。
言いたいことはたくさんあったはずだった。だが、そのほとんどが、マロンとなら言葉にしなくても共有している。 こんなに静かだとは思わなかった。あの人がいないというだけで、こんなにも。
「お部屋……そのままですのね」
ふと、部屋を見回して、ティラが呟く。
この部屋は、マロンとキャロットが二人で暮らしていた部屋だ。当然、キャロットの物もたくさんあるのだが、マロンはそれにいっさい手をつけていなかった。
「……独りでいるとね……なんだか、今にも『今日は不作だったぜ』とか言いながら、帰って来そうな気がしてね」
カチャン、とティラのカップが音をたてる。少し、手が震えている。
「不思議ですわね……私も、時々そんな気がしますわ……振り向くと、そこにいるような気がして」
ティラはうつむいた。
キャロットの遺体は、とうとう見つからなかった。それがどうしても心の片隅に『生きているのではないか』という希望を持たせてしまう。だがその希望は、日を追うごとに小さくなっていき、そこにぽっかりと穴が開いてしまうのだ。空虚感という暗い穴。何で埋めていけばいいのか、わからないのだ……。
十日ほどの休息を終え、四人は仕事に戻った。一旦仕事に戻ると、まるで取り付かれたように仕事をこなした。忙しく仕事をこなしている間は、悲しいことも辛いことも忘れていられるからだった。ステラ教会本部に戻ることもなく、逆にマムに仕事を要求するほどだった。
そして半年。三人が、ようやく普通に笑うようになってきた頃。仕事を終えたばかりの四人に、ビッグ・マムが連絡をよこした。
「仕事ですか、マム」
ティラの問いに、マムが微笑む。
「仕事ではありません。しかし、貴方達に行ってほしい所があります」
「それは?」
「貴方達の今いる場所から、西に三日ほどの所にジーナパスシティという港街があります。そこで、ある人物が貴方達との接触を望んでいるのです」
「ある人物……?」
怪訝な顔をする四人に、マムは映像を見せてくれた。
「その人は……!」
「キャン?!」
「急いで行ってみるといいでしょう。ちょうどいい機会です。貴方達に、休暇を与えます。すぐにジーナパスシティのステラ教会に行って下さい」
マムは意味深に微笑むと、すぐに消えてしまう。
「何かあったのかしら?」
「とにかく、行ってみればわかりますわ」
ショコラにティラが答える。声が少し震えた。……キャンの記憶は、キャロットの記憶に直結しているのだ。
あの日の事件を、もう思い出したくはない。そう思うと、どうしてもキャンの記憶も封じ込めざるをえない。あれ以来、キャンのことを話題にしたことは一度もなかった。
今回の目的地……ジーナパスシティ。貿易を行なう港を中心に発展した街で、街全体が活気付いている。ここを治めているナイゼア伯爵が良くできた人物で、そのためここの庶民はわりと裕福な暮らしをしている。
「活気のある街ね」
「あっ、あそこですわ、おねーさま。ジーナパスシティのステラ教会です」
ティラが、街の一角に教会を見つけた。ステンドグラスの窓が、きらきらと光って見える。
「ごめんくださいまし〜」
ドアを開けると、中にいた優しそうな神父が、にこにこと応対してくれた。
「今日はどのようなお悩みでいらっしゃったのですか」
「あの、ビッグ・マムの言付けでまいりましたの」
ティラの言葉に、神父は一瞬だけ表情を変えた。だが、すぐににこにことした表情に戻ると、四人を『こちらへ』と奥の部屋に案内する。
奥の部屋には、懐かしい人物が四人を待っていた。
「キャンさん! お久し振りですわ」
「待っていたわ。どうか、何も聞かずに少しだけつきあって」
キャンは一人一人と握手をすると、フードのついたマントをはおる。人狐族のキャンは、この服で耳と尻尾を隠して歩くのだ。
「わかった。でも、どこへ……?」
マロンの問いに、キャンは振り返ると小さく微笑む。
「確かめてもらいたいことがあるの」
それだけ言うと、キャンはすたすたと先に立って歩き出した。四人が慌てて後を追う。
キャンは教会を出ると、裏通りを選んで歩いた。何度か角を曲がると、倉庫が並んでいる少し広い場所に出る。子供達が数人、遊んでいる。
キャンはそこで立ち止まると、くんくん、と空気のにおいをかぐ。
「……うん。ここで少し待つわ」
「キャン……?」
「お願い。もう少し、何も聞かないで」
キャンの言葉に、四人は不思議がりながらも承知する。
聞こえるのは、子供達の声だけだった。最初は遊んでいる声だったのだが、何があったのか、声の調子が変わる。
「この弱虫! 泣き虫!」
「何とか言えよ!」
どうやら、一人の子供を、他の全員が取り囲み、悪口を言っているらしい。こづいたりしている者もいる。
「なんでしょう、一人によってたかって!」
「ほおんと、ああいうのは許せないわね!」
ティラとショコラが憤慨したように呟く。助けるつもりだろう、子供達の方へ歩き出す。 それを見ながら、マロンはふと幼い頃のことを思い出していた。
幼い頃。引っ込みじあんで、いじめっ子達の恰好の標敵だったマロンも、あの子供のように、いじめっ子達に囲まれてしまうことがあった。泣きそうな気分になっていると、どこからともなくキャロットがすっ飛んできて、大声で叫んだ……。 |