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五歳のマロンは暗い闇の中を歩いていた。 どうしてこんな所にいるんだろう。裸足のまま、マロンは歩き続けている。灯りひとつない闇の中だ。ぺたぺたという自分の足音以外、何も聞こえない。
「・・・?」
しばらく、泣き出しそうな顔のまま歩いていてマロンは、やがて遠くに灯りを見つけて立ち止まった。・・・マロンの歩いていく先に、ぽわ・・・っと光が見えるのだ。
マロンは足を速めた。闇の中にいるのは怖い。早く灯りの所へ行きたい。
しばらく走っていて、マロンはその灯りの正体を知った。・・・マロンの頭ほどはありそうな、白いりんどうのような花。その花のめしべが、ぼんやりと光っているのだ。そして、その花の茎を手にしていたのは・・・。
「兄さん!」
マロンの顔に、ぱあっ・・・! と笑みが広がった。どんな場所、どんな状況でも、大好きな兄さえいれば、怖いものなんかないと思う。
「兄さん!」
駆け寄って、兄の体に飛び付いた。兄の手が伸びて、マロンの頭を撫でてくれる。
「兄さん、ここはどこなの? 凄く・・・暗いよ」
「『一番最初があったところ』だよ」
兄が答えた。ふとマロンは、その声に異和感を憶えた。
「兄さん・・・?」
見上げると、自分よりひとつだけ年上であったはずの兄は、すっかり大人になっている。見慣れない服を着て、髪がとても長い。
「兄さん・・・?」
それでも、マロンにはその人物が兄だという確信がある。だから、『この人は誰?』という疑問ではなく、『なぜ兄さんが大きくなっちゃったの?』という疑問がマロンの中に生れた。
自分を見上げるマロンに、大きくなってしまった兄が微笑みかけた。・・・りんどうの灯りはとても頼りなげで、兄の表情の下半分しかマロンには見る事が出来ない。
「俺を追い掛けてきてくれたのか?」
兄が、そう呟いて、マロンの頭を何度か撫でた。マロンはなぜか、漠然とした不安のような恐怖のような感情を憶えて、兄の表情を伺おうとする。
「お前はいつもそうだよな・・・ありがとう」
りんどうの灯りを、兄がマロンに手渡した。思わず受け取りながら、マロンはもう片方の手で兄の服を掴んだ。何か、とても不安だ。兄がどこかへ行ってしまうような、そんな不安・・・。
「俺も・・・もう少し、夢を見ていたかった・・・」
辛そうな声。・・・マロンの瞳に、涙が浮かぶ。
「もう少し・・・眠っていたかった・・・」
兄が歩き出した。マロンはなぜか、掴んでいた服を放してしまう。・・・今ここで手を放したら、二度と会えなくなってしまう。・・・そう思いながら、まるで足が地面に貼り付いたようになって離れない。
「兄さん・・・やだ、行っちゃやだあっ!」
マロンが叫ぶ。兄が立ち止まって、振り向いた。
「お前は、早くお帰り。・・・その灯りが指し示す方へ。・・・俺が目を覚まして、違うものに変わってしまう前に」
「やだ・・・嫌だっ」
マロンの叫ぶ声に、別の声が重なってくる。
「嫌です、兄上! 行かないで下さい!」
気がつくと、マロンも子供の体ではなかった。大人の体・・・その『中』から、マロンは声を聞いている。もう一人の、自分の声を。
「お願いです・・・! もう少し時間を下さい!」
叫ぶ声はまるで、泣いているようだ。
「もう少しだけ・・・、私達の側で眠っていてくれませんか」
「できない」
きっぱりと、兄の声が返答する。
「・・・夢は終わってしまった。・・・俺は、もう眠っていることは出来ない」
兄の声もまた、泣いているようだ。
「世界の悲鳴が、俺を急き立てるんだ・・・もう・・・目覚めてくれ、と」
「貴方が絶望するのもわかります・・・でも、貴方が愛しんだものまで、すべてが無に還えってしまうんですよ?!」
「・・・そうだ。俺はすべてを無に還えす。一度終わらせて、また始めるために」
再生のための破壊。彼はそう主張する。・・・だがそれは一方で、それだけ絶望の深さを示してもいた。愛しいものもろともに、すべてを無に還えそうというのだから・・・。
「お願いです・・・」
「・・・・・・・」
「お願いですから、私の側にいて下さい・・・」
もう、声は叫んではいなかった。・・・泣いていた。 誰のためでもなく・・・自分の側にいてほしい。どんな願いよりも遥かに強くまっすぐな、そんな心の込められた声・・・。世界の破滅も、すべてが無に還えることも、声の主にとっては、本当は一番大切な事ではないのかもしれない・・・。
「俺は、お前を泣かせてばかっりだな・・・」
兄の声が苦笑する。・・・だが、それでも彼の決意は最早変わることはなかった。
「俺はこれから、目を覚ます・・・だが、お前がまだ世界を愛していて、救いたいと思うのなら・・・、お前の手で俺を殺せ」
「・・・・・・!」
「俺を止めろ・・・すべてが終わってしまう前に」
「い・・・嫌です、兄上! 私は貴方と戦うなど・・・!」
「救いたいなら・・・俺を殺してくれ・・・」
兄はそれだけ言い残し、その場を去っていく。『救いたいなら』が、マロンには『俺を救いたいなら』と聞こえた。
「兄上ーっ!」
声が、叫んだ。マロンもその感情に巻き込まれ、同時に叫んでいた。
「兄さんーっ!」
・・・その瞬間、闇が、砕けた。
「マロン! おいマロン!」
誰かがマロンを呼んでいた。・・・懐かしい声だった。闇に沈んでいたマロンの意識が、急激に・・・その力に抵抗しながらも・・・浮上する。
「マロン!」
もう一度、声が耳元で叫んだ。その瞬間、マロンの意識は一気に目覚めを迎える。
「!」
開いた瞳に飛び込んできたのは、朝の光に照らされた、見慣れた天井だった。
「マロン、目ぇ覚めたか?」
嬉しそうな声が自分を呼んでいる。視線を動かすと、にこにこと笑っているキャロットの顔が見えた。マロンが慌てて体を起こす。
「兄さん……」
笑っている兄の顔を見た瞬間、不意に夢の中の悲しい気持ちが蘇ってきてしまう。みるみるマロンの瞳に涙が浮かんできて、キャロットが慌てた。
「マロン?」
「兄さんっ」
マロンがキャロットの首に腕を回して抱きついた。そのままぐすぐすと泣き出した。
「何だよ、怖い夢でも見たのか?」
こく、とマロンが頷く。
「あのね・・・兄さんが、どこかへ行っちゃうんだ・・・」
「馬鹿だな、俺はここにいるじゃんか」
「うん・・・でも」
マロンは言い淀む。確かにキャロットはここにいた。・・・でも、『背中を向けて去っていく兄』を、マロンは知っているような気がした。
「でも・・・」
泣きながら震えているマロンの背中を、キャロットが何度かぽんぽんと叩く。
「俺はどこにも行かねーよ!」
「ほんと・・・?」「ああ。お前が行ってもいいって言わねーうちは、どこにも行かねーよ」
「ほんとに、ほんと?!」
「ああ! だから、いつまでも泣いてねーで、顔洗ってこいよ。母ちゃんに怒られるぞ!」
「うん!」
マロンがやっと笑って、ベッドから飛び降りる。部屋を飛び出していくマロンの背中を見ながら、キャロットがやれやれと苦笑した。
一足先に台所へ入ると、アプリコットが忙し気に動き回っていた。
「キャロ、マロンは起きたの?」
「うん、今顔洗いに行ってる」
「キャロよりお寝坊なんて、珍しいわね。雨が降るわ」
「なんか、変な夢見たって・・・いきなり泣くんだもんな」
椅子に座りながらキャロットが呟いたその言葉に、アプリコットが振り向く。少し表情が強張っているのだが、キャロットは気付かない。
「・・・どんな夢?」
「なんだかさー、俺がいなくなる夢だってさ」
「・・・そう」
アプリコットが、視線を手元に戻し、仕事を続ける。その時ちょうどよく、マロンが入ってきた。
「お母さん、おはよう」
「おはよう、マロン」
マロンの声ににっこりと微笑みを返しながら、アプリコットはマロンの顔をさっと眺めた。別段、顔色が悪いとかいうことはなさそうだ。 マロンがキャロットにとてもなついているのは、アプリコットも知っている。『大好きな人』がいなくなってしまったら、そんな夢を見たら、誰だって悲しい。
だが・・・、それだけだろうか。アプリコットはスープをかき回しながら考える。キャロットがマロンくらいの年齢の時もそうだった。・・・子供達はただの夢ではない夢を見る。言葉を覚えたばかりのキャロットが、上手にそれを説明できなくて、ただ怖がっていたこともあった。
もちろん小さい子供の事なので、少し時間がたてば忘れてしまう。外の世界に興味を奪われていくからなのか、やがてそんな夢も見なくなる。キャロットがそうだ。
「さっ、朝ご飯にしましょうか」
スープをよそった皿を、アプリコットがテーブルに並べる。
「お父さんは?」
「まだお仕事よ」
「ふーん・・・」
「さ。こぼさないでね」
いつもの朝の風景だ。違うのは、アプリコットの心の中の漠然とした悲しみだけだった。
その日の夜。マロンは再び夢を見ていた。
荒涼とした世界に、マロンはいた。とても怖かった。・・・だがなぜだろう。見覚えのある世界だった。草一本生えぬ世界など、一度も見たことがないのに。
「兄さん・・・」
心細げに、マロンが呟く。大好きな人の手を捜して、マロンがあたりを見回した。 不意にあたりが真っ暗になり、次に明るくなった時には、同じ世界の別の場所にいた。どうしてそう気付いたのかはわからないが、マロンは再び昨日の夢に出てきた誰かと、同化していた。
「兄上・・・」
声が・・・本当に悲しそうに呟く。
彼は剣を手にしていた。その剣に、赤い血が伝わってくる。・・・剣の切っ先は、あの闇の世界で彼が兄上と呼んだ人物の胸に、突き刺さっている。
彼の体も、すでに瀕死の重傷だった。・・・だが、体よりずっと、心が痛い。同化しているマロンの心も、きしむような痛みを訴える。
「兄上・・・、今・・・今、すぐに治療を・・・」
剣は深く刺さっている訳ではなかった。すぐに抜いて治療すれば、兄の命は助かるはずだ。
不意に、兄が手を伸ばした。剣の刀身の、中頃を無造作に掴む。
「あ・・・兄上・・・? 何を?!」
兄は微笑んでいた。そのまま、手に力をこめて・・・、剣を引き寄せる。
「兄上っ!?」
彼が叫ぶ。だが、その時にはもう・・・。
「兄上 !! やめてくださいっ!! 兄上 −−−−っ!!」
最後は絶叫だった。兄の背中に鮮血が散り、剣が突き通る。
「あ・・・ああ・・・っ!」
あまりの衝撃に、彼は言葉を失った。力を失った兄の体が、その体の重みに任せ、大地に倒れ込む。剣がずるりと抜け、赤い血が大地に滴る。彼は剣を取り落とした。
「あ・・・にう・・・え・・・」
彼が、自分の両手を思わず見やる。・・・彼の愛しい者の血で、真っ赤に染まった両手を。
「なぜ・・・!!」
彼は兄の体の脇に膝を落とした。兄の体を抱き起こす。
「兄上・・・! しっかりしてください、なぜ・・・なぜこんな・・・!」
彼の声に、瞳を閉じていた兄が、ゆっくりと目を開けて彼の顔を見た。 兄が深く長い息を吐く。
「いいんだ・・・これで・・・間に合って・・・よかった・・・」
・・・・世界を終わらせてしまう前に。・・・愛しい者を、すべてその手にかける前に・・・。兄の表情は、優しく穏やかだ。彼の頬に、涙が溢れる。・・・兄が、死にたがっていたことを知って。
心から優しい兄は、行き着くところまで行き着いて、悲鳴をあげる世界を見捨てておけなかった。愛するがゆえに、愛したものを壊さねばならなかった。・・・それが、どれほどの苦痛であったろう。
一度壊さなければ、何も始まらない。だけどそれでも、兄は望んだのだ。・・・世界をすべて滅ぼしてしまう前に、自分を止めてほしいと。
「お前には・・・すまないことをしたな・・・」
兄の手が、彼の涙に濡れた頬を撫でる。
「俺の勝手な想いで・・・一番苦しめた」
「いいえ・・・いいえ!」
彼が兄の体を抱きしめた。・・・ただ悲しかった。こんなにも、世界のすべてを愛した人が、すべてに優しかったこの兄が、同時に世界を滅ぼさねばならない運命を持ってしまった・・・その事実が。そしてそのために、ずっと血の涙を流していたであろう兄の心が・・・。
そう思い至った時、彼はもう兄をこの世界に引き留めておけなかった。・・・それはもう、兄を苦しめることでしかない。
「また・・・夢を見るよ・・・」
「はい・・・」
「いつかまた・・・会おう・・・」
「次に巡り逢う時も・・・私の兄でいてください・・・。また・・・『お前は馬鹿だ』と・・・私の頭を撫でてください、兄上・・・」
彼の頬を流れた涙が、兄の頬に落ちる。兄が、小さく笑った。
「ああ・・・そうだな・・・。また側らにお前がいれば・・・きっと・・・」
それだけ言って、兄はゆっくりと、瞳を・・・閉じた。体の力が失われ、その温もりさえも急速に失われていく。
「・・・・・・・! 兄上・・・・っ!」
彼がきつくきつく、兄の体を抱きしめる。だが、失われた温もりが戻ってくることはなかった。
世界は滅亡を免れた・・・世界を深く愛した者の命と引き換えに。
「もう・・・誰も、何も・・・・貴方を苦しめることはない・・・・。安らかですか・・・・? 兄上・・・・」
彼がゆっくりと、ささやくように呟く・・・深い悲しみに涙を止め処なく流しながら、彼は心に誓っていた。 ・・・再び兄の側に生まれることが出来たなら、もう二度と兄をこんなに悲しませる事にはさせない。どんな事からも、兄を守ってみせよう。兄が、光の中で笑っていられるように。ずっと夢を見ていられるように・・・。そして、ずっと一緒にいられるように。
きらきらと・・・、兄の冷たくなった体が光り始める。その色が薄れ、輪郭が薄れ、重さが消えていく・・・・すべてが無へと戻っていく。
「・・・すぐに・・・すぐに、貴方のところへ行きます、兄上・・・」
彼が微笑んだ。彼の命ももう、つきかけていた。すぐに兄のところへ行けると思うと、兄を失っていながら安らかな心でいられる。
彼は立ち上がって歩き出した・・・彼の歩き行く先に、一人の人物が倒れていた。
「アプロス・・・」
声をかける。・・・倒れていた女性は気がついて瞳を開けた。
「・・・あの人は・・・?」
「・・・眠ったよ・・・」
「そう・・・」
女性が悲し気に微笑む。
「私も・・・、もう存在を保てない・・・。あの人達の後を追うわ・・・」
「・・・私もすぐに行くよ・・・・」
「・・・・・・?」
彼がアプロスの手を持ち上げ、自分の胸に押し当てた。
「・・・・・!」
そこに、鼓動はなかった。アプロスが驚いた顔をする。
「ヤクシャ・・・・」
「いいんだ・・・・あの人のいない世界に、一人生き残ることに意味などない・・・」
兄を失った事実が、彼の最後の鼓動を止めてしまったのか。・・・アプロスが小さく頷いた。『あの人のいない世界に生き残ることに意味はない』・・・それは彼女も、彼女達より先に逝ってしまった二人も、同じ気持ちであったと思うから。
「そうね・・・そうね。私達、ずっとあの人と一緒だったものね・・・」
「クーリンとカールマンも、きっと先に行っているよ・・・」
「ええ・・・そうしたら私達・・・、また一緒にいられるわね・・・」
「そう・・・きっと、あの人と一緒に・・・」
幸せそうに、アプロスが微笑む。その体が光を放ち始めて・・・、そして彼女の体も無へと還えっていく。 見守る彼の姿もまた、光に包まれる。
「残された者達よ・・・、どうか・・・この世界を、光あふれる世界に・・・」
呟きと共に、彼の体が強く発光した。その光は全世界を走り抜け、荒涼とした世界に緑の大地を取り戻す。それと同時に彼の体は無に還えった。彼に同化していたマロンだけが取り残される。
旧世界は壊れ・・・、新たな世界がそこに始まった。
取り残されたマロンは泣いていた。いつまでも、泣いていた・・・いなくなってしまった彼の代りに、夢が覚めるまで。
気がつくと、まだ部屋の中は真っ暗だった。同じ部屋で寝起きしているキャロットの、規則正しい寝息が聞こえてくる。
枕が涙で濡れていた。起き上がり、ベッドを降りる。キャロットを起こそうとして、やめた。
あんなに泣いたのに、夢の内容はよく覚えていなかった。・・・ただ凄く悲しかったことだけを覚えている。そーっと、キャロットのベッドに潜り込みながら、マロンは眠っている兄の顔を見る。
・・・・いつまでも、一緒にいられたらいいな。 そんなことを考えるマロンの肩を、キャロットが抱き寄せる。目を覚ましているのかと思って、マロンが驚いたが、どうやらそうではないらしい。
兄の体が、暖かだった。その温もりに身を寄せながら、マロンはずっと一緒にいられることを願い・・・、穏やかな眠りに落ちた。
貴方を、守りたい。
貴方を傷付けるすべてから。
世界よ、どうか優しく。
幸せな夢が覚めないように。
幸せな夢が覚めないように・・・・・・
<END>
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