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その女性は必死に逃げていた。深夜、町の裏通り。歩いている人間はいない。月明かりに、自分の影ばかりが伸びていく。
女性が目指して走っていたのは、町外れにあるステラ教会だった。そこへ行って、どうしても伝えなければならないことがある。
走りながら、女性は一度振り返った。追手は・・・いない。このままなら逃げ切れるかもしれない。
だが、ほんの少し安心した女性の耳に、風が鳴く音が聞こえた。はっとした女性の顔が、恐怖で引き攣る。
とっさに身を屈めたのは、本能の領域だったろう。今まで彼女の頭のあった部分を、何かが走り抜け、側の家の前に生えていた樹木に激突した。その瞬間、樹木の幹が、何十にも裂けた。強度を完全に失った樹が、その部分からバキバキと音をたてて倒れていく。地面に倒れ込んでいた女性が、それを見て小さく悲鳴を上げた。
「よくかわしたな」
残忍な喜びに彩られた声が、女性の背後からかけられる。・・・女性には聞きなれた声だった。
・・・男が立っていた。灰色の髪の、冷たい瞳をした・・・若い男。額に逆三角形紋様・・・法族だ。今、樹木を倒したのはこの男の魔法の力だろう。腕の金色の腕輪が、月の光に冷たい輝きを放っている。
「親父から預かったものを出せ」
男が告げる・・・どこまでも冷たい声で。女性は地面に座り込んだまま、動くこともできない。
「聞こえないか?渡せ」
男は焦れていた。唇から呪文が紡がれる。女性が悲鳴を上げるのも忘れ、それでも逃げだそうとした。
男が指を小さく動かした。風が・・・鳴くというよりもきしむと表現するべきか。その瞬間、逃げようとしていた女性の右足が、ずたずたに裂ける。
血しぶきがあがった。女性の唇が、激しい悲鳴を吐き出す。激痛に地面を転がる女性の右足は、膝下から千切れた。男の頬に、跳ね飛んだ血がかかる。男は笑っていた、残忍で冷酷な微笑みで。
「さあ・・・手足が全部千切れる前に、渡せ」
そう迫りながら、再び呪文を唱える。涙があふれる恐怖の表情で、女性は地面から男を見上げた。
男の言う通りにした所で、自分んが助からないのは明白だった。この男・・・自分を見下ろしているこの男が、少しでも逆らった人間を許すはずがない。
女性は切望の涙を落とした。自分はここで死ぬのだろう。だが、女性の口から助命の言葉は出なかった。無駄だと知っているからでもあるだろう、しかし最後の意地でもある。どうせ死ぬのだ。こんな男の言うなりになど、なってやるものか・・・!
「渡さないわ!」
女性の声とともに、左足が千切れる。再び悲鳴が上がり、女性は地面を転がった。激痛が急速に、彼女の意識を侵食し始めている。
「何を強情を張っているんだ・・・?」
男は不思議そうな顔をした。こんな状態にあって、命ごいをしない女性を不思議に思った・・・理解できなかった。今まで、あらゆる人間が自分の力の前には屈服すると、そう思い込んできた人間特有の現象だろう。
「貴方なんかに、渡さないわ! 旦那様の最後の頼み・・・貴方なんかに!」
女性は更に叫んだ。右腕が千切れ飛ぶ。だが、すでに女性はもう痛みを感じていなかった。消える寸前の炎が、一瞬だけ勢いよく燃え上がるように、感情だけが激しく高揚していく。
「呪われろ、オウリー! 地獄に落ちてから、後悔すればいいわ!」
順番から行けば、次は左腕だった。だが、男は激怒していた。自分の思い通りにならないばかりか、恐怖にのた打ち回ることもしない、挙げ句の果てに、法族である自分を罵る、この生意気な女に。
女性は永遠に沈黙した。・・・頭が弾け飛んだのだ。先決が辺り一帯を染める。
男は荒い息を吐き、怒りに震えた。愚かな怒りが、彼の内面を支配している。
自分を押さえつけようとばかりしていた、父親への怒り。父親ばかりを慕い、自分を恐れる使用人達・・・そして、父親のお気に入りで、最後まで自分に屈服しなかった女への怒り・・・。
しばらくして、どうにか怒りを押さえつけ、男は血にまみれた女性の衣服を調べた。だが、目的の物がない。
「馬鹿な・・・!」
男は愕然とした。女が持っているとばかり思い込んでいた、だから怒りに任せて殺してしまった。なのに、このままでは「あれ」がどこへ隠されたのか、わからないではないか!
「くっそお・・・虫けらの分際で!」
男の怒りが更に膨れ上がった。自分の行為を反省するという、そういう思考は男にはなかった。自分の気に入らないことが起きるのは全部他人の所為。自分はいつも正しくて強いのだ。・・・男はそう思っていたし、母親もそう教えてくれたのだ。
母親はいつもこう言っていた・・・自分達は誰よりも偉くて素晴らしくて、庶民などは虫けらだと。そして庶民に情をかける自分の夫を、軽蔑してもいた。そんな母親は男が成人しないうちに死んだが、彼女の思想はそのまま息子である男に引き継がれていた。だから、自分に起こる不都合なことは、すべて庶民の所為なのだ。
「必ず見つけてやる・・・!この町の人間、すべてを殺してでも!」
男は呟いた・・・悪魔そのものの顔で。
次の日の朝・・・あの騒ぎに脅え、様子を見ることさえしなかった町の住人達は、恐る恐る家から出てきた。そして彼らが見つけたのは・・・すでに元の形を完全に失っている、何百という欠片に砕かれた人間の肉・・・だった。
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